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Presented by Hayato Amano

▲中越遺跡の一角に復元された竪穴式住居です。

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▲宮田宿のあたりには町屋や蔵が数多く残っています。
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▲宮田村の大観

歩み続ける宮田村

宮田村では、これまでに70を超える遺跡が発見されており、約1万年前から生活が営まれていたことが明らかになっています。縄文時代には、中越遺跡と名づけられた巨大な集落が姿を現し、そこで発見された特徴ある土器は「中越式」と呼ばれています。

「宮田」という地名は奈良時代には存在していたと考えられており、平安時代になると「延喜式」や「倭名類聚抄」という文献のなかに登場します。この時代には、「東山道」の「宮田駅」が置かれていました。ただ、その所在地はいまだ明らかになっていません。

室町時代には「宮田氏」や「中越氏」などの豪族の存在が文献に記されています。彼らの居城といわれる城跡も残っています。ちなみに、宮田氏は小田切氏とともに、武田信玄によって滅ぼされたと伝えられています。

江戸時代は高遠藩に属し、「伊那街道」の「宮田宿」が置かれました。この宿場は「信濃十五宿」の一つに数えられ、交通の要衝としてにぎわいました。現在でも往時の雰囲気を感じることができます。また、この宿場に置かれていた本陣は移築保存されています。

明治時代になると、宮田村と中越村が合併し、現在の宮田村が形づくられました。明治時代から大正時代にかけて製糸業が盛んになり、たくさんの工場が開設されました。 開墾も盛んに行われ、農地も増加しています。さらに、伊那電車軌道(現在のJR飯田線)宮田駅が開設されます。こうした村の発展にともない、商業も栄えました。

第二次世界大戦の際には、宮田村への工場の疎開が進みます。このことが戦後、工業の隆盛につながります。1950年代になると、単独で町制を施行して「宮田町」となりましたが、合併後に分立することを条件に駒ヶ根市の発足に参加しました。その後、幾多の難局を乗り越えて「宮田村」として復活し、今日にいたっています。

 

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